絵によせられたことば

銅版画をメーンに描画も発表する梅田の名古屋での八回目の個展。今年制作したドローイングとモノタイプ作品、約三十五点を展示する。モノタイプとは版画の一技法。梅田は銅版に油絵の具やインクなどでイメージを描き、乾き切る前に湿らせた紙を載せプレスし、転写させる。
 銅版画の黒い線の美しさに魅せられる梅田には線を引く、絵を描く行為は生きている証。音や匂い、風など目に見えない何かへまなざしを向け、今ここに存在するとはどういうことか、突き詰め続けて描く。「線が教えてくれる」
  作品にはガソリンを直接垂らしたり、絵の具の希釈に使ったりする。薄められた絵の具の際(きわ)は輪郭の一つとなり、自身の線と対話する存在として生きて いく。「湿曜」=写真=は、雨の降り続く外の世界が自身と浸透し合うイメージ。流れ落ちる絵の具、鉛筆の線、指で置く色・・・。滝のようにも人の後ろ姿の ようにも見える。私には涙、の存在が心に宿った。一九七一年東京都生まれ。埼玉県川口市在住。

野村由美子(中日新聞文化部記者)
中日新聞朝刊 2015.11.11

 

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氷の触れ合う音も、炎の爆ぜる音も、
すべて空気が動いて生まれ、届けられる。
梅田恭子さんの超微細な世界にすべて凝縮されています。

大森智子(ピアニスト)

ギャラリーf分の1 梅田恭子 『白道ノ下』展より
2015年6月

 

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白道(はくどう)というのは月の通り道のこと。
月はまん丸な時とみえなくなる時があって、満ちて、欠けてをくりかえす。
梅田恭子さんの仕事は、月の光のあとをたどるように、その下で産まれ、
そして消えていく命の気配を絵にとどめているようだと思う。
みる人によって、風景であったり、野花や草、土の中の根、動物や虫、
だったりするかもしれないし、何かはわからないけれど、
みえるものではない、こころが聴こえてくるかもしれない。
抽象画にこそ、作家の品のようなものが現れると聞いたことがある。
みる人の目に、それが映るのも、その時々の出会いなのだと思う。
こころから梅田さんという人を、そして作品を信じています。
2年半ぶりの神戸、春の陽射しのおとずれと共に多くの人に出会ってほしいと思います。

林 淳子(ギャラリー島田)
ギャラリー島田deux 『梅田恭子 - 白道ノ下 -』展より
2015年3月

 

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つぶやくような、独り言のような、切れ切れの線。描かれる板や紙の素(す)の表情。描くことと描かないことの間を見つめようとする視線の力が、孤独の痛さと、喜びを伝える。銅版画と鉛筆画による近作を展示する。

大倉宏

新潟日報朝刊 2014.11.06

 

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造形に関わってもう20年近いキャリアなのに、梅田さんの絵には手馴れているという印象を受けたことがない。それは、きっと一点、一点が新しい 「今」を生きる梅田さんの日々の息遣いを伝えているからだろう。この「息遣い」を造形することへの戸惑い、おののき、ためらう心の揺らぎと言い換えてもよ い。造形することはいつも心身ともに過酷な営為なのだ。この「揺らぎ」は見つめられ、なぞられながら、掻き傷のような線になって刻まれていく。そして誰も が、その清浄な心奥からの表現を前にして寡黙になる。厳しさに触れて言葉を失いながらも、一方で射られた心を治癒してくれるかのように宿された柔らかく、 温かい抒情にも満たされて詠嘆の声を上げる。そして、カタルシスを得る。

小見秀男(新潟絵屋運営委員 美術学芸員)

新潟絵屋『梅田恭子展』より
2014年11月

 

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梅田恭子の絵は字に似ている。
人は字に意味を見、字を見ない。字は意味に隠れながら、何かを伝える。
梅田の絵もやはり隠れる。ひそむ。
絵に人は絵を見る。手が描かれていれば手を、描かれていなければ<抽象>を、線に動きを、テクスチュアに表情を探す。
そのように人が絵として見るものに、梅田の絵は――と言うのが変なら、絵を乗せている何かが隠れる。その何かが語り、ささやき、ときに襲撃するのだ。

絵からはがした身に、見たのではないものに刻まれた刻印が、覚えのない傷のように、思い出せない夢のように、うずく。

大倉 宏(美術評論家 砂丘館館長)

菊川画廊『梅田恭子展 -銅版画と鉛筆画-』より
2014年6月

 

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『声』

ときどき、
声が、

聴こえるのです。

視つめていると、
声がして、

こころが痛むのです。

梅田さんの手から生まれる、

かたちのことです。
線のことです。
色のことです。

「傷いんです、ぼろぼろなんです、生きているんです」

声を聴いてしまうと、

小罎(こびん)から、

日曜日の子どもが
顔をだします。

日曜日は
いつも
お見舞いの日でした。

迷路みたいな病院の、
廊下を抜けて病室へ。

パイプベッドにおばあちゃん。

近づいて握りしめる、
しわしわの手。

手を、繋いだままはじまる
おしゃべり。

白いシーツ、白いカーテン、白い壁。

消毒薬の、
匂いでさえも。

子どものわたしにとって
お見舞いは、楽しいことでした。

とある

夕暮れ、

わたしは
休診の薄暗い待合室に
ひとり、立っていました。

そこから、
放射状に伸びるいくつもの廊下の入口。
暗い、穴のような。

まったく唐突に、

廊下の入口は、

死の
入口のように
感じました。

自分や自分の周りの人たちが、
いつか死んでしまうということが、

怖くて怖くて堪らなくなりました。

こころには、
小罎があります。

剥き出しにしていると
耐えられない思いを、

仕舞い込むための
小罎があります。

廊下の入口の、その向こう、

闇に向かって目を凝らした
幼いわたしを

こころの小罎に
仕舞い込みました。

梅田さんの、

かたち、線、色。

聴こえてきたのは、

わたしが仕舞い込んだものを、
剥き出しにしている人の、
声でした。

「生かされて、いるんです」

日曜日の子どもが、
小罎から、
顔をだし、

わたしは。

痛みとともに、在りました。

初めての畏れを、仕舞い込ませたのは、
子どもゆえの、図太くもたくましい生きることへの執着で、

日曜日の子どもは、無自覚に、溢れる生命(いのち)のかたまりでした。

そしてまた、

剥き出しの

かたちを
線を
色を

前に、

聴こえる声に

身をゆだね。

さいとうれいこ

梅田恭子作品カード特別付録『そのかたち』より

2013年12月

 

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納屋橋のトリエンナーレ展を見てA.C.Sの梅田恭子展を見た。トリエンナーレ展の空気と落差が大きくピントを合わせるのに時間を要し、再度訪れることになった。

美術は本来個人的なもので、トリエンナーレ展の見せ物アートとはちがう。テーマ「霧と爪」は30点並べられ、絵は霧の中で爪を見るようでコントラストがなく、見える限界のニュアンスは神を見るようで、作者は決しておしつけようとしない。おくゆかしく共感者を期待する姿勢がさりげなく自然でうすいえんぴつの小さな文字で「霧と爪」、「ほとほと」、「西風」、「夕方の空」・・・・・・と書かれたタイトルが作家梅田を象徴していた。

作品の強より弱に比重をおくおぼろ美学は神のように見えない美しさを求める信念にあると思った。

白秋の「曇日のオホーツク海」を連想した。

光なし、燻し空には 日の在処ただ明るのみ。
かがやかず、秀に明るのみ、オホーツクの黒きさざなみ。
影は無し、通風筒の、帆の網が辺に揺るるのみ。
寒しとし、暑しとし、ただ、霧と風、過がひ舞うのみ。

後藤泰洋

ギャラリーA.C.S『霧と爪』展より

2014年1月 季刊 La Vista 59 (ギャラリーA.C.S発行)

 

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密やかな声、幽けき声こそ、心に染み入り、消え行くような響きが、消えてしまったあとも幻聴のように残る。
梅田さんの作品は見入った瞬間に眼は捉え られ、脳に送られた感覚はにわかには慰藉されることなく浮遊する。しかし、いつまでも幻視のように残る。その不思議さは麻薬のように切れそうな抹消神経を 慰藉する。
月糸(にくづき いと)-の月は漢字の偏の称。肉を纏った人間の存在に絡まりついた糸。
糸は様々な有様(ありよう)の象徴。繋いだり、縛ったり、縺れたり。その軋みが音もなく哀歌を奏でる。

日々の厭悪の染み付いた垂幕がはらりと落ち、舞台から奈落へ墜ちる。歓声や拍手は遠ざかり、闇に一人立つ。
シナベニアにドローイングされた沈黙と測りあえるほどの鉛筆の痕跡。その向こうに荒涼たる原野。
胎内の記憶か、幼い日にうなされた夢か、長じての幻視か。いずれにせよ脳襞に刻印され歳月に晒された残滓の すべてが、自らの分身であることを静かに同意しながら、息をつめるように眼を離せないのが梅田恭子の表現である。

島田誠(ギャラリー島田)

ギャラリー島田deux『梅田恭子 - 月糸 -』展より

2012年11月

 

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梅田さんの表現は痛く、そして眩いけれど魅せられてきた。どこがどう痛いのか説明できないが、何故に痛く、眩いのかは分かっている。自己の「存在」 を凝視し、あまりにピュアな姿勢で制作に挑む作家の内面に昇華した繊細で強靭なミクロコスモスを前に言葉を失い、悟性と感受性が否応なく照射されているの に気づくから。だからと言って、心を射るような厳しい表現だけではない。文芸における「もののあわれ」の詠嘆に照応するような叙情も宿し、作者の内には怜 悧な観察者に幻視のロマンチストが寄り添っているのがわかる。それからもし、あなたの心の余白にまだ柔らかな琴の線が残されていれば、闇の空間が奏でるピ アニッシモの旋律に共振するだろう。どうぞ、梅田さんの心奥からの表現に眼と耳を凝らして欲しい。こころから「私」を浄化し、精神の糧とするために。

小見秀男(新潟絵屋運営委員 美術学芸員)

新潟絵屋『梅田恭子展 』より
2012年3月

 

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『一秒の無限』
言葉にして語られてしまうと、とたんにその言葉が刃になって、まるで返り討ちに遭ったみたいに自らがずたずたに裂かれてしまう、そういう繊細な心がある。
沈黙のなかで辛うじてバランスを保っている、やわらかで、過敏な心。
梅田恭子が描く不定形の、紙の裏から滲み出てくるような形象を見ていると、どうしてもそのような傷つきやすい心のことを思ってしまう。
その形象はだから言葉と言葉の隙間から、言葉の目をかいくぐってそっとそこに表れてくるように見えるのだ。
むしろ名づけられないように注意しながらひっそりと滲み出る。(2010年12月11日~25日 神戸、ギャラリー島田)

震えるような細い線、そしてこまやかなグラデーションで広がる面、この二つが梅田恭子の作品の要素である。
なにか具体的な物象のイメージをそこから連想することはむずかしい。
地でもないし気でもない。
火でもないし水でもない。
それどころかそこからなにかを連想することをそれはむしろ拒んでいる。
これは、ここにあるこれがすべてで、これ以外の何ものでもない。
控えめながらそのように宣言する。

ギャラリーの島田社長が奥からルーペを持って近づいてきた。
微妙な濃淡の面のところにそれを当てて、ごらんなさい、と例のバリトンで促した。
覗いて驚く。
面と見えていたところが、実は線の集積なのである。
しかも一本一本が繊細に震えている。
微細な震動。

不意にマチスを撮った古い短編映画のことが浮かんできた。
一気に描いたと見えた直線が、高速度撮影で撮ってみると、実に微妙に震えていた。
たじろいで足踏みしているようなところもあった。
いっそうびっくりさせられたのは、震えているのを見て、マチス自身がひどく驚いていたことだ。
彼も直線を引いたつもりでいたのである。
その映像の撮影者が(あるいは編集者だったか)、たしか無意識の震えというようなことを言っていた。

無意識の震え。
自身でさえ気づかない深層の震え。
すなわち魂の震え。
いのちはたぶんそのような震えに乗って表れてくるのである。

じっさい、街に流れている表面の時間とは違う別の時間が梅田の線に流れているそのことに気づくのはそんなに難しいことではない。
一秒ではまとまったことはなにもできないとついそう思ってしまう衝動がぼくらにはあるけれど、それは間違いなく外の時間に侵された荒っぽい心である。
梅田の線の一秒には心のありあまるほどの動きがある。
無限の複雑な震えがある。
何層もの心の動きがそこに折り畳まれているのである。
一秒がもう無限に深いのだ。

カントは時間の実在を信じなかった。
時間は、状況の変化を認識するための単に観念の形式に過ぎないと言い切った。
現代の量子論もその方向に進んでいる。
時間の革命…?
そこであらたに見えてくるのは、ぼくらが一瞬としか感じない刹那の、その裂け目に漲り渡っている無限の豊饒さではなかろうか。
むしろ時間がそこから誕生してくる、その時間の故郷が切り開かれる一瞬、刹那、…一瞬の無限。
梅田恭子の創造もたぶんその方向に動いている。
瞬間のなかに無限を見いだす方向へ。

ということはつまりこうも言えるだろう。
この作家は言葉に裂かれることに脅えつつ実は言葉の故郷へ向かっている、と。
言葉が世界を切れ切れに分節してしまうその以前、最初の一音「あ」のなかに世界のすべてが映し込まれ、充溢し、その一音が世界の隅々へ響いていった、あの叫びの時代。
すなわち、彼女の恐れと慄きの震えの裂け目にこそ全体が甦る。
地と気と火と水のすべてが一体となった運動、その運動がそこにある。
全宇宙の運動がその微細な震動に現われる。

山本忠勝(元神戸新聞編集委員)

ギャラリー島田 『四分ノ三』展より

2011年1月

 

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天音堂ギャラリー(大阪)で初めて出会った。衝撃だった。見たことも無い世界を覗いた。普段は見たくない、感じたくないものを見た。いや、「たくない」ではなく「えない」が、より近い。しかし、それは異質でも異次元でもなく、誰もがもつ存在の一部が生々しく、しかし密やかに現出している。ミクロ(微細)なものにこそ、いっそう痛切が宿り、異質なものこそ本質を露にする。ざらざら感、落書きに見える線、不思議な物体、すべてが偶然ではなく必然であることに圧倒された。

「人知を離れた虚空に作品たちが渦をまき、ひとつの壮大な銀河となっている」小杉健一  梅田恭子 銅版画集『ツブノヒトツヒトツ』扉詞より

梅田恭子さんの作品は言葉で表現するのが極めて難しいのですが、それだけに宙吊りにされたような不安感と深い余韻を残します。幽けし声がずっしりと心を圧します。進行を止めたかのように、そして消えゆく音の先に無限に続くかに思える沈黙。沈黙を抱えた荒野に梅田の心の傷のような航跡が浮かびあがり、耐えている。みていただきたいと切に思います。

島田誠 (ギャラリー島田)

ギャラリー島田 『四分ノ三』展より

2010年12月

 

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昨年末、梅田さんの作品をみせてもらった。一枚一枚めくりながら、静かに、
だまって文字を読み、作品をみる。時間が、いろんなあるはずのない隙間から
温度のない粉雪のようにさらさらと降り積もって重なって、息が苦しいような、
胸が詰まるような、首筋が熱くなるような、幸福な気持ちになった。

「うつくしい」ってなんだろうか。

梅田さんの線や色やそれらのあわいに、私はついぞ使ったことのないその言葉を
易々と思ってしまう。思ってしまってから、これはそういう言葉でいうことなの
だろうかとも思う。
ぐるぐる思いながら、でも目はいまみたものを反芻しながら、「作品と言葉で絵
屋の空間を満たしませんか」と梅田さんにお願いしていた。

タイトルの「ディム」は英語のdim(薄ぼんやりとした)で、
「ソノ音」という漠然とした、なにか、が不器用になきそうだったから
こんなふうにした、と、梅田さんから聞いて、またどきどきしている。

この、幸福。

上田浩子 (デザイナー)

新潟絵屋 『ディム、ソノ音』展より

2010年3月

 

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妙に懐かしい言葉以前の情景

字がうまいとか達筆である、ということではないのだけれど、梅田さんの書く文字は美しい。ひらひら落ちては消える春の雪のよう。タイトルの「ディム」と は「薄ぼんやりとした」という意味だそう。でも梅田さんの作品自体は案外ぼんやりなどしていない。

時として天体望遠鏡で撮影された、はるかかなたの天体のように。或いは顕微鏡のプレパラートに蠢(うごめ)く微生物の姿にもみえる作品は、そのどちらでもなく、梅田さん自身の心。それも文字や言葉になる以前の、感情の動きがそのまま描かれたものなのだろう。

明確な輪郭を与えたら、どんどんウソになってしまう細やかな、しかし確たる感情の流れは、胎内のような薄闇に生まれ、成長し、暴発し、流動し、収斂(しゅうれん)し、また薄闇に消えていく。梅田さんの作品を言葉にするのは難しい。言葉以前の情景だからか。でも初めて目の前にした作品なのに、どこか遠い昔、その風景をみたことがあるような既視感、妙な懐かしさを覚えるのは、自分の内にも存在した心の中の情景だからなのかもしれない。

雪片のひとひらずつを記録し続けた学者がいた。梅田さんもまた、自分が存在しているその一刻一刻の感情の記録をし続ける。雪は無音のようでいて雪の降る 音というのは、やっぱりある。「ソノ音」というその音も無いようでいて、確かにある音なのだろう。以前、作品をみた時、無音のようでいて流れ続ける音があ る、と思ったが、梅田さん自身もその音を聴いていたのか。

田代草猫 (俳人)

新潟日報  あーとぴっくす (朝刊・2010年3月1日)

 

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時とともに、雨に晒されて風に還る作品がある。シナベニアに蓄積している、様々な存在の感覚の跡が、描かれる絵の成り立ちに響きと旋律を与えている。版画制作のあいまに、手元のダンボールや板きれに描いていたものが、こうしてドローイングとして発表され数年たった。ほんの一瞬、面の上に現れたような光景。絵は、それがないとみえないからあるのだと思う。

言水ヘリオ(言水制作室)

ギャラリーA.C.S『一秒づつ』展より

2008年11月

 

シナベニアへのドローイングがギャラリーの壁に並んでいる。シナベニアという、画材店というよりはホームセンターなどで販売されている合板にドロー イングする行為とはどういうことなのだろう。銅版画をつくり続けてきた作者にとって、銅板の価格高騰という事態も影響しているかもしれない。だがそれだけ ではないだろう。そのような現実をむしろ機会として受けとめ、素材の転覆を謀るのも、制作を続ける必然のひとつ。アトリエでの制作の合間、あたりにある合 板やダンボールの切れ端に描いた幾多の線のつぶやきが、これらの作品の始まりとなった。シナベニアのドローイングははかない。一般に美術作品は経年変化を しないことが求められている。だがむき出しのベニアは劣化を避けられない。しかも描くために使われているのは主に鉛筆である。いとも簡単に消えてしまう (いとも簡単に消えてしまう、それはまるで人のようではないか)。これらの作品においては、時間もまた画材なのではないか。そのように考えられる。

会場に足を踏み入れると、作品のありようがいつもと異なるような気がしてしばらく戸惑った。いつもと違う土地に来て緊張でもしていたのだろうか。思 い返すと、それはこの展示の均一な照明が原因のひとつであったように思われる。陰の気配が希薄だった。陰がないと宿らないものがある。ギャラリー内の、椅 子のある奥まったスペースのたなには、蜜蝋を使った絵、モノタイプ、詩画集などの小さな作品が置かれていた。その奥のスペースで座ってモノタイプなどをめ くっていると、あたりに少し光や空気のよどみがあり、そこではスッと絵に入り込むことができた。

ところで、壁面の作品は、ずいぶんと低い位置に展示されていた。大人の胸の高さ、あるいは腰掛けた顔のあたりの高さだろうか。前かがみに、うつむい てのぞき込むような具合である。作者の視線は絵に近く、上から下に向いているだろう。絵の生態系における存在域がこの高さなのだろうか。わからない。

ここでしたこと。それは美術鑑賞ではなく、描かれた作品からひらけている通路を見いだし、踏み行くことであった。みえていることはおそろしくわずか で、みようとするとみえるものごとも増えてくる。作品の美の価値を査定することはその筋の専門家がいるのだろう。自分には関心がない。以上その場で体験し 考えたことを述べた。

言水ヘリオ(言水制作室)

ギャラリーA.C.S『一秒づつ』展より

芸術批評誌【リア】no.21リア制作室

 

2009年5月31日発行

 

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熱いどろどろの蜜蝋が版画用紙に薄く塗布されややあって冷めて固化してゆく。
描かれた線と色は冷めてなお画家の手の不思議な熱を蔵している。

山口平明(天音堂ギャラリー)

『余韻ノ音』展より

2008年6月

 

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水底ニ吹ク、風――まだ名もなきドローイングに

梅田さんと再会したとき、
春先の空気は暖かく、
桜の花は、ぼんやりとした空気の被膜に開いた破れ目から
こぼれ出すように咲いていた。
荒川がきらきらと光りながら流れて、
土手に繁った草の葉の一枚一枚が透き通り、風にそよいでいた。
車の音が近く遠く、
陽だまりの中を、色褪せた赤い自転車を押して歩きながら、
梅田さんは“やっぱり、春は怖いです”と小さな声で言った。
春の風景はうららかでのどかで、そして地中の奥深くではおそらく、
地上に新しい生命を噴き上げるための、
想像を絶する営みがひそやかに行われている。

梅田さんが銅板に刻み、紙に刷り取るというこれまでの手法を逸して、
どろどろの蜜蝋を使って描きとどめたものは、何なのだろう。
水面に浮かび上がり、息を継ぐのではなく、
さらに水中深くに潜り、息をつめて鼓動の音に聞き入るような。
やっとの思いでとどめたそれらは、
生身のまま、風にさらされて震えている。

その小さな震えが、
また新しい一つ一つを、強く深く、刻んでいけるように。

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岡部万穂(美術ライター)

天音堂ギャラリー『水底ニ吹ク、風』展より

2008年4月

 

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(失くしものをした 翌朝)
(わたしを 拾いました)
(あんまり ちいさいので)
(正直 面食らった)
(でも うれしかったので)
(あなたに お言付けしたのです)
(耳の奥に棲みついた 薄むらさきのセミの声に)
(それは それは よく似ていました)

石川翠(美術批評家)

ポルトリブレ『オモリ – ハカリ』展より

2006年11月

 

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銅版画は額に入っていない。紙はたくさんの余白をもったまま、虫ピンで壁に留めてある。だから、それらは、たった今、プレス機からでてきたばかりのように見える。硝子絵は、壁にたてかけて床にある。仮にちょっと、そこに置いたみたいに。

インスタレーションというと大仰になるが、展示方法が、個展における梅田恭子さんのもうひとつの「作品」となっている。生まれたてのすがたをしている作品。どこかに至る途上。それは、個々の作品が、私たちとどのように出会いたがっているかを示している。その意味では、ことばもまた、梅田さんの「作品」と言っていいだろう。タイトルのことばは、作品を離れても、ただそれだけでポエジーを孕み、ことばのよろこびを伝えてくれる。版画家、画家、と呼ぶより、梅田さんは、まさに表現者なのだ、と思う。それも、きわめて確信的な表現者だ。

幼いころ、よく凹凸のあるものの上に紙を置いて、鉛筆で擦ったものだ。葉っぱ、机の木目、そして十円玉。紙に写し出されるモノクロームの葉脈。梅田さんの作品は、遠い日のそんな遊びを、私に思い出される。それらが、何かに、何処かに、紙をあてて、写し取ったものであるかのように、無為のすがたをしているからだろう。写し取られた、場所や時の記憶、感情、気配。どこかに気づかれないままにある哀しみ、失意や孤独さえも、梅田さんは、世界が隠し持っている祝福として、そっと差し出してくれる。だから、梅田さんの作品に出会うとき、私たちの生はいい匂いを放ちながら深く息づくのだ。

ギャラリーA.C.Sのやわらかく白い空間は、梅田さんの作品にとって恵まれた空間だった。けれど、場所を選ぶことなく、梅田さんは、〈そこ〉を、自分の空間とするだろう。破壊された瓦礫のはざまでも、それが可能であるのか、つまり、梅田さんの作品が、そこでも人々の生の祝福となるのかは、わからない。可能ではないにしても、私は、梅田さんの仕事に、そのような力を求めない。この地上のあらゆる場所が、梅田さんの作品が展示されるのにふさわしい場所になるように、と願うのだ。

草野信子(詩人)

ギャラリーA.C.S 『失音 銅版画と硝子絵』展より

芸術批評誌【リア】no.14リア制作室

2006年7月20日発行

 

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絵を見る時に身体中でみる時と、視点を絞って集中して見る時がある。
版画も硝子絵も手のひらサイズにギュンと凝縮され、ミクロの世界と言うと大仰だが、身じろぎも忘れて、
まるで梅田さんの脳の中とか感性の働きを覗き見させてもらっているような気にさせられて、うれしくなる。
あたたかく、やさしく、おごりがない厳しい仕事です。ぜひご覧ください。

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佐藤文子(ギャラリーA.C.S)
『失音 銅版画と硝子絵』展より

2006年3月

 

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深い闇の中で互いに呼び交わすことで、互いの在り処を確かめ合っていたものが、その標となる一方の音を失った時、何をよすがに己を確かめればいいのだろうか。
闇に取り残されたものは、静寂の檻に捉えられ、おののき、身悶えてあがきながら道を求めようとする。そのあがきが、空気を震わせ、新たなる音を生む。音は伝わっていき、それを聞くものを呼び寄せる。
そのように紡がれていった音は、闇を突き抜け、ついに地平線を、水平線を見出しそのさらなる向こうに思いを飛ばす。

この作品群は、その歴程にほかならない。

住吉千砂

松明堂ギャラリー『失音 ドローイングと詩画集』展より

2006年5月