山本忠勝氏による、梅田恭子『四分ノ三』展 <2010年12月 ギャラリー島田(神戸)>
の展示批評が、シュプリッターエコーに掲載されました。
Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版
Cahier
10077 梅田恭子展 一秒の無限
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言葉にして語られてしまうと、とたんにその言葉が刃になって、まるで返り討ちに遭ったみたいに自らがずたずたに裂かれてしまう、そういう繊細な心がある。
沈黙のなかで辛うじてバランスを保っている、やわらかで、過敏な心。
梅田恭子が描く不定形の、紙の裏から滲み出てくるような形象を見ていると、どうしてもそのような傷つきやすい心のことを思ってしまう。
その形象はだから言葉と言葉の隙間から、言葉の目をかいくぐってそっとそこに表れてくるように見えるのだ。
むしろ名づけられないように注意しながらひっそりと滲み出る。(2010年12月11日~25日 神戸、ギャラリー島田)
震えるような細い線、そしてこまやかなグラデーションで広がる面、この二つが梅田恭子の作品の要素である。
なにか具体的な物象のイメージをそこから連想することはむずかしい。
地でもないし気でもない。
火でもないし水でもない。
それどころかそこからなにかを連想することをそれはむしろ拒んでいる。
これは、ここにあるこれがすべてで、これ以外の何ものでもない。
控えめながらそのように宣言する。
ギャラリーの島田社長が奥からルーペを持って近づいてきた。
微妙な濃淡の面のところにそれを当てて、ごらんなさい、と例のバリトンで促した。
覗いて驚く。
面と見えていたところが、実は線の集積なのである。
しかも一本一本が繊細に震えている。
微細な震動。
不意にマチスを撮った古い短編映画のことが浮かんできた。
一気に描いたと見えた直線が、高速度撮影で撮ってみると、実に微妙に震えていた。
たじろいで足踏みしているようなところもあった。
いっそうびっくりさせられたのは、震えているのを見て、マチス自身がひどく驚いていたことだ。
彼も直線を引いたつもりでいたのである。
その映像の撮影者が(あるいは編集者だったか)、たしか無意識の震えというようなことを言っていた。
無意識の震え。
自身でさえ気づかない深層の震え。
すなわち魂の震え。
いのちはたぶんそのような震えに乗って表れてくるのである。
じっさい、街に流れている表面の時間とは違う別の時間が梅田の線に流れているそのことに気づくのはそんなに難しいことではない。
一秒ではまとまったことはなにもできないとついそう思ってしまう衝動がぼくらにはあるけれど、それは間違いなく外の時間に侵された荒っぽい心である。
梅田の線の一秒には心のありあまるほどの動きがある。
無限の複雑な震えがある。
何層もの心の動きがそこに折り畳まれているのである。
一秒がもう無限に深いのだ。
カントは時間の実在を信じなかった。
時間は、状況の変化を認識するための単に観念の形式に過ぎないと言い切った。
現代の量子論もその方向に進んでいる。
時間の革命…?
そこであらたに見えてくるのは、ぼくらが一瞬としか感じない刹那の、その裂け目に漲り渡っている無限の豊饒さではなかろうか。
むしろ時間がそこから誕生してくる、その時間の故郷が切り開かれる一瞬、刹那、…一瞬の無限。
梅田恭子の創造もたぶんその方向に動いている。
瞬間のなかに無限を見いだす方向へ。
ということはつまりこうも言えるだろう。
この作家は言葉に裂かれることに脅えつつ実は言葉の故郷へ向かっている、と。
言葉が世界を切れ切れに分節してしまうその以前、最初の一音「あ」のなかに世界のすべてが映し込まれ、充溢し、その一音が世界の隅々へ響いていった、あの叫びの時代。
すなわち、彼女の恐れと慄きの震えの裂け目にこそ全体が甦る。
地と気と火と水のすべてが一体となった運動、その運動がそこにある。
全宇宙の運動がその微細な震動に現われる。
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2011.1.13 Tadakatsu Yamamoto |
Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版 Cahier10077 より 著作者の許可を得て転載