美術批評誌【リア】no.21レビュー掲載

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梅田恭子 一秒づつ
ギャラリーA・C・S(名古屋市中区)
2008年11月15日(土)~11月29日(土)

シナベニアへのドローイングがギャラリーの壁に並んでいる。シナベニアという、画材店というよりはホームセンターなどで販売されている合板にドローイングする行為とはどういうことなのだろう。銅版画をつくり続けてきた作者にとって、銅板の価格高騰という事態も影響しているかもしれない。だがそれだけではないだろう。そのような現実をむしろ機会として受けとめ、素材の転覆を謀るのも、制作を続ける必然のひとつ。アトリエでの制作の合間、あたりにある合板やダンボールの切れ端に描いた幾多の線のつぶやきが、これらの作品の始まりとなった。シナベニアのドローイングははかない。一般に美術作品は経年変化をしないことが求められている。だがむき出しのベニアは劣化を避けられない。しかも描くために使われているのは主に鉛筆である。いとも簡単に消えてしまう(いとも簡単に消えてしまう、それはまるで人のようではないか)。これらの作品においては、時間もまた画材なのではないか。そのように考えられる。

会場に足を踏み入れると、作品のありようがいつもと異なるような気がしてしばらく戸惑った。いつもと違う土地に来て緊張でもしていたのだろうか。思い返すと、それはこの展示の均一な照明が原因のひとつであったように思われる。陰の気配が希薄だった。陰がないと宿らないものがある。ギャラリー内の、椅子のある奥まったスペースのたなには、蜜蝋を使った絵、モノタイプ、詩画集などの小さな作品が置かれていた。その奥のスペースで座ってモノタイプなどをめくっていると、あたりに少し光や空気のよどみがあり、そこではスッと絵に入り込むことができた。

ところで、壁面の作品は、ずいぶんと低い位置に展示されていた。大人の胸の高さ、あるいは腰掛けた顔のあたりの高さだろうか。前かがみに、うつむいてのぞき込むような具合である。作者の視線は絵に近く、上から下に向いているだろう。絵の生態系における存在域がこの高さなのだろうか。わからない。

ここでしたこと。それは美術鑑賞ではなく、描かれた作品からひらけている通路を見いだし、踏み行くことであった。みえていることはおそろしくわずかで、みようとするとみえるものごとも増えてくる。作品の美の価値を査定することはその筋の専門家がいるのだろう。自分には関心がない。以上その場で体験し考えたことを述べた。   言水ヘリオ(出版業)

芸術批評誌【リア】no.21(リア制作室、2009年5月31日発行) p.107-108発行者の許可を得て転載

芸術批評誌【リア】no.21
450円(本体価格)
発行:リア制作室