美術批評誌【リア】no.14レビュー掲載

少し前の作品展になりますが、詩人の草野信子さんからいただいた展示のレビューをご紹介させていただきます。

※こちらの文章は、ホームページの『絵によせられたことば』のなかでもご覧いただけます。

rear kotori

梅田恭子 『失音』 -銅版画と硝子絵-
ギャラリーA・C・S(名古屋市中区)
2006年3月7日(火)~3月18日(土)

銅版画は額に入っていない。紙はたくさんの余白をもったまま、虫ピンで壁に留めてある。だから、それらは、たった今、プレス機からでてきたばかりのように見える。硝子絵は、壁にたてかけて床にある。仮にちょっと、そこに置いたみたいに。

インスタレーションというと大仰になるが、展示方法が、個展における梅田恭子さんのもうひとつの「作品」となっている。生まれたてのすがたをしている作品。どこかに至る途上。それは、個々の作品が、私たちとどのように出会いたがっているかを示している。その意味では、ことばもまた、梅田さんの「作品」と言っていいだろう。タイトルのことばは、作品を離れても、ただそれだけでポエジーを孕み、ことばのよろこびを伝えてくれる。版画家、画家、と呼ぶより、梅田さんは、まさに表現者なのだ、と思う。それも、きわめて確信的な表現者だ。

幼いころ、よく凹凸のあるものの上に紙を置いて、鉛筆で擦ったものだ。葉っぱ、机の木目、そして十円玉。紙に写し出されるモノクロームの葉脈。梅田さんの作品は、遠い日のそんな遊びを、私に思い出される。それらが、何かに、何処かに、紙をあてて、写し取ったものであるかのように、無為のすがたをしているからだろう。写し取られた、場所や時の記憶、感情、気配。どこかに気づかれないままにある哀しみ、失意や孤独さえも、梅田さんは、世界が隠し持っている祝福として、そっと差し出してくれる。だから、梅田さんの作品に出会うとき、私たちの生はいい匂いを放ちながら深く息づくのだ。

ギャラリーA.C.Sのやわらかく白い空間は、梅田さんの作品にとって恵まれた空間だった。けれど、場所を選ぶことなく、梅田さんは、〈そこ〉を、自分の空間とするだろう。破壊された瓦礫のはざまでも、それが可能であるのか、つまり、梅田さんの作品が、そこでも人々の生の祝福となるのかは、わからない。可能ではないにしても、私は、梅田さんの仕事に、そのような力を求めない。この地上のあらゆる場所が、梅田さんの作品が展示されるのにふさわしい場所になるように、と願うのだ。

草野信子(詩人)

芸術批評誌【リア】no.14リア制作室
2006年7月20日発行 p.69-70著者と発行者の許可を得て転載

芸術批評誌【リア】no.14
350円(本体価格)
発行:リア制作室